「何時になったら、『経済学者に騙されるな』の本論が出てくるのですか?ブログなので、端的に本論を述べる方がよいのではないですか」という趣旨のコメントいただきました。確かにブログではそのスタイルがより似合うと思いますので、全く同感です。バックグラウンドの説明が結構長くなってしまいましたが、今回から、その本論に入っていきます。
経済学者に騙されるな、の主張は、実は、学生時代に授業で、伊東光晴先生から、当時著名な英国経済学者、ジョーン・ロビンソン女史が、経済学を学ぶ目的は経済学者に騙されないようにするためである旨を述べているとお聞きし、その後頭の片隅に生き続け、忘れたことはなかった。この20年程前から随分いい加減な経済政策を時流に乗って喋りまくり、この国と世界を誤りと混乱に導いた経済学者・評論家、マスコミエコノミストが目立ち、ジョーン・ロビンソンの名言がイキイキと迫るのである。例えば、雇用問題はマクロ(巨視的)経済の雇用の総量が問題であるのに、無視して(恐らくこれを知らない)、職にありつけないことは個人の自己責任であると、ミクロ(微視的)理論ばかり展開している。これは本当の解決策の政策ではない。何にどう騙されないようにすべきか、本ブログはその概要を展開することを意図している。
さて、アダム・スミスの自由放任は、いろいろな考えや趣向好み、利害を持った多数の人々が市場に自由に参加し、それらの全員の意向が市場において調整される結果、資源の最適配分が実現する。ここで決まった資源・商品の価格や賃金や資本の利潤は、公正な価格であり、“社会正義”も実現するということであった。
新自由主義のフリードマンとその信奉者の主張は、自由市場の自然均衡に深い確信を根拠に、あらゆる規制を緩和しろ、自由競争に任せろ、そうすれば、すべてうまく行くとの一点張りであり、規制や政府の介入は自然均衡を歪めるという。
現実の歴史的な経験はどうであったか。
経済成長や繁栄は、シュンペーターの言う「イノベーション」(技術革新や組織経営革新を含む革新)等により“一定の時期”やある地域において実現してきたが、しかしながら、「自然的均衡」状態や社会秩序の達成は、長期的持続的には実証されていない。(ご存知の方があればご教示願いたいものである。)。
歴史的事実からしても自然均衡や秩序が達成したような時代は観察されていないのであるが、理論的に見ても、自由市場では、次に述べるような、満たされない完全競争の条件や「市場の失敗」があり、一定の規制による補完なしには、うまくいかないのが経済学の理論的帰結である。
自由競争で自然的な均衡が実現するには、「完全競争市場」という前提が必要であり、これが無い場合、競争結果は歪められ、自然均衡が達成しないことが、スミス以降の多くの経済学者の研究により、明らかになっている。それは次のようなものである。
完全競争市場の条件
・供給者と需要者それぞれが多数で、少量であり、単独では価格支配力がない。
(価格が恣意的や支配的に決まらないこと)
・経済のどこで変化があっても、コストなしに即時に全体に波及する完全流動的市場
・人々が財についての正確な知識を持つ(情報の完全性)。
・新規参入が自由に可能である。
一番目の条件である、市場参加者は価格支配力を持たないという条件は、自由競争にとって最重要であるが、結局、資本主義の進展とともに、自由競争はますます、資本力の強大化、優秀な人材の集中化を進展させ、新技術の開発、優れた商品戦略、広告やマーケッティング戦略、さらには経営戦略を成功させた強者にますます有利に、弱者(弱い企業や個人)はさらに不利になって行く。自由競争自体が、非競争的価格、非競争的状態を形成し、強者がますます有利になるのである。
二番目の完全流動的市場などどこにも存在しない。近年のIT情報革命で、昔よりは情報の普及スピードが飛躍的に高まったとはいえ、このような前提は全く非現実的である。
三番目も参入の自由も、製造でも販売でも各業界では、インターネットのようなまったく新しい産業はともかく、巨額の資金や膨大なノウハウが必要となっており、新参入の障壁はますます大きくなっている。
さて、さらに完全競争の研究が進み、現実の市場においては、「市場の失敗」という自由市場が生来持つ欠陥が明らかになっている。列挙すると次のとおりである。
市場の失敗の代表例は、次のようなものが挙げられる。
① 自然的・地域独占(電気・水道・電話・ガスなど)
② 独占・寡占による市場の支配
③ 外部経済(市場経済の外部:正の外部経済、負の外部経済)
④ 公共財のただ乗り(フリーライダー)
⑤ 情報の非対称性(隠れた情報、隠れた行動)
⑥ 不完備市場(ストックオプションの完備市場の場合)
⑦ 不確実性(将来の不確実性が投資過小/過大を生む)
⑧ 費用逓減産業(巨大な固定費のかかる産業で生産規模の拡大でコストが低下する産業 <通常の均衡条件では、費用逓増法則が前提である>)
⑨ 収穫逓増産業(開発費は膨大であるが製品は安価に製造できるソフト産業)
「市場の失敗」の1番目の「自然的独占」の主なものは、電気・ガス・水道・電話など、社会的な公共インフラであるが、巨額な資金が必要であり、自然的・地域的独占を形成することになるので、政府が直接経営したり、民間資本であっても公共料金を政府が認可する仕組みをとっている。ただし、近年では、鉄道、電話などこの分野も自由化が進んでいる。
第2番目の独占寡占の問題は、巨大設備投資を必要とする鉄鋼、造船、石油プラント、自動車製造などは、新規参入が困難であるために、独占寡占を形成しやすいし、そのような時代もあった。また、資本主義経済の発展とともに必然的に進展する、巨大資本や新技術や新商品、商品差別化戦略、特許・意匠権などを伴う市場支配である。談合やカルテル等も該当する。
第3番目の「外部経済」(市場の外部)の問題とは、自由市場では、均衡や秩序をもたらさない取引である。例えば、公害やごみ廃棄物処理や、近年では地球環境保全問題がある。公害の例では、防止投資やコスト負担を行わず、水銀やカドニューム、六価クロムなどの有害(劇薬)の廃液を処理をしないで河川や海に垂れ流し、水俣病やイタイタイ病の公害を引き起こした。
それは、事業者自らがコストを負担して公害・環境保全対策を行う動因が、競争モデルに内在しないからである。有害性が証明されるまでは、また、有害であると証明されたとしても規制が無ければ、余分なコストのかかる対策を行わない。さらに。偽装や虚偽により対策を逃れるケースも数多くあった。われわれはそのような企業を不誠実、反社会的企業と断罪してきたが、市場の経済原理には自動的に防ぐようなメカニズムがないのである。市場の外部から規制をかけないと防ぐ手立てがない。
工場や自動車の排気ガスも、排ガス浄化装置をつけず、大気汚染や喘息など公害病を生んだ。消費者も法的な規制が無ければ、自ら進んで高いコストの対策車を買うことは、経済原理からすると、一部の篤志家を除いて一般的には無理なのである。
地球環境対策商品も、政府補助金のエコポイントや、結局長期的に電気代が安くなるなど、経済メリットがないと、市場原理からは一般的に普及しない。結局、望ましい社会には、一定の政府の介入や規制が避けがたいことは自明である。
ごみ廃棄物処理も。市場の失敗の代表例である。本来は、製品の価格に廃棄コストも含ませて処理されるべき(消費者が負担すべき)であるが、自由市場では、そのコストを組み入れられないので、法規制によることになる。
容器包装の廃プラスチック処理で、「ガス化法」という方法がある。これは廃プラスチックを高温によりガス化し、アンモニア等の化学物質にする方法で、100%回収できるし、最大のメリットは、納豆やドレッシング、マヨネーズなど汚れた容器も分別しなくても一括処理でき、また種類の違うプラスチックを仕分けすることも不要であることである。ガス化法であれば、住民は汚れたプラスチック容器を分別しなくて済み、自治体も回収作業が容易である。ただし、ガス化法ができる先進技術をもつ企業は日本に1社しかない。
収集されたごみのプラスチックは、プラスチック処理協会が処理業者の入札により引渡すことになるので、ガス化法ができる処理業者が落札されるどうかわからないために、自治体は、汚れた物は分別収集することになり、住民の負担も大きい。もともと「市場の失敗」から必要な廃プラスチックの処理業者を「入札」という市場原理で対応しているために、このように優れて効率のよいガス化法が十分に使えないし、この先端技術を開発した企業も十分に発展できないのである。「市場の2重の失敗」である。
第4の公共財のフリーライダーは、空気や地下水のような財を無償で消費することである。地球上の空気はアマゾンの森林から大量に供給されるが、その森林育成に空気の消費者は代金を支払っていない。アマゾンの森林は市場主義により、乱伐されている。地下水も同様である。
第5の情報の不完全性や非対称性(隠れた情報、隠れた行動)は、市場参加者(労働者、財の提供者、需要者、消費者)のもつ情報が完全でない場合、その結果人々の行動と結果は歪むことは容易に想像できる。
第6以下の説明は省略するが、さまざまな「市場の失敗」があるために是正が必要であり、政府は、規制等による市場の管理や、自らが直接供給者Playerになるなどの方法により、すべての国で、さまざまな形で行われているのである。
新自由主義者の主張するように、規制緩和撤廃すればすべてがうまくいくわけでは決してない。自由主義を信奉する経済学者に騙されないようにする第1のポイントである。
なお、私見では、規制の無い自由はありえない。自由がベースにあって、自由が社会的な正義と秩序を実現するように規制が必要である。それは、アクセル(自由)とブレーキ(規制)の組み合わせであると、私は考えている。アクセルだけの自動車は止まれないし、規制だけの自動車はそもそも走れない。エンジン(アクセル)が強力であればあるほど、ブレーキ制動も適正でなければならない。
利己心の発揮による自由主義は、儲けるには何をしてもよいとばかりに人間の欲望を開放しているので、核爆発力ほどの強大なエネルギーと破壊力を持つ。適切な制装置なしに核エネルギーは人類の幸福と発展には使えない。
自由と規制は、自由と平等との均衡と関係して、永遠の課題であるが、社会的秩序は、どちらか両極端でなく、“中道”にあると思われる。私はこれを、「秩序型自由主義」と命名したい。
<補足1>
フリードマンの主張は、1962年の「資本主義と自由」、1980年の「選択の自由」が有名であるが、62年はベトナム戦争が始まって2年後であり、社会主義的勢力が拡大する傾向への反論、さらに、米国のケインジアン等による政府・官僚の肥大化、政府の失敗への警鐘に重点があり、その分偏っている。フリードマンの後継信奉者はさらに偏狭になっている。なお、賢明なフリードマン自身は、上述のような「市場の失敗」に言及し(選択の自由p51)、市場の限界を認識しているかのようであるが、その論点をほぼ飛ばし(軽視し)、他方の「政府の失敗」を強調して自己主張している。しかし、両方の失敗とも恐ろしい結果を生むことが認識されねばならない。
<補足2>
私は、フリードマンが一貫して強調する「政府の失敗」問題も、「市場の失敗」と同じ程度に非常に重要と認識している。市場の失敗があるから、政府の介入が必要なのであり、その政府の失敗もあるからである。それは、丁度メダルの表裏である。政府の介入は、過剰介入になったり、特定の既得権益の保護になったり、時代の変化で不要や有害になったりする。
昨年の民主党の事業仕分け(第1弾)を、終日インターネット中継によりパソコン2台で2会場を見たが、官僚の無駄に怒り心頭に来ました。例えば、10億円の予算に対して、天下った官僚などの管理・事務費が3億円で、真水の補助金は7億円。予算の30%も役人の管理事務費に消えていく。労働行政も、福祉行政も、国民にとって必要なものですが、その必要な事業に官僚が寄生しているような構図である。
官僚の寄生とは別の視点では、本来必要のない事業が、国民の政府へのいろいろな要求により、そして、組織を拡大したい官僚がそれに乗って、沢山行われている。過剰な補助金依存体質となっている。住民の地域エゴが強く出て、自立や自助精神が薄れているのではないか。フリードマンの荒療治、つまり、政府の介入を外し、国民に自立を求めないと、日本の財政借金(約1,000兆円)は、とても解消しないであろう。政府の無駄とは、官僚だけでなく、国民の地域エゴと自立意識の変革が必要であると感じる。
私は、フリードマンの「選択の自由」を30年ほど前に読んだときに、「政府がいったんこれをはじめてしまえば、廃止されるのはごくまれ」(p53)であり、続けて、官僚は政策が失敗すれば、予算が足りなかったからだといって増額を要求し、成功すればさらに予算の増額を要求するという趣旨の主張に深く共感し、「政策が失敗しても成功しても予算が増えるフリードマンの法則」と命名した。
なお、蛇足であるが、この他に私自身が命名している「フリードマンの法則」は、「税金無駄使いの法則(他人のお金を他人のため使うのは最も無駄使いをする)ことや、「規制自己増殖の法則」(規制が規制を呼ぶ。規制を作るとさらに足りない部分が出てきて、規制のファイルが膨大になる)、「官僚組織自己増殖の法則」などがある。税金の使途、財政規律や官僚の規制のあり方を考える重要なポイントであると思う。
次回は、自由主義(市場主義)と人間の徳性(正直、正義心、自尊心、他人を思いやる心や慈悲心など)について述べたい。(続く)
2010年7月14日水曜日
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