新自由主義とは何か(1) ―利己心が自然的均衡を実現する原理ー
それでは、新自由主義/市場主義とは何であろうか。
新自由主義の原型は、およそ200年前に確立された「古典派経済学」です。アダム・スミス国富論(1776)によって体系化され、その後、ダビッド・リカードやAFマーシャルによって確立された経済理論です。
今回は、古典派経済学を大雑把におさらいしておきたい。
人間の本性の一つである「自己愛」self-love、「利己心」(self-interest)が、市場において人間の価値判断・行動の中心的役割を果たします。人間本性の重要な他の側面である、慈悲だの思いやりだのは切り捨てられます。
マーシャルは、経済行動する人間について、“ホモ・エコノミクス”(利益を追求して合理的に行動する人)という仮定を明確にしました。単純化された人間像です。この仮定の上に、理論が展開されています。仮定の上に理論が構築されている点は、しっかりと記憶し、常に意識しておく必要があります。
なぜなら、社会科学は、“科学的”たろうと論理的展開を企てますが、しかし、人間の個々の意思を超えた自然法則である物理法則のような訳にはいきません。実際、部分的、個別の経済理論を除いて、前提なしには全体の経済法則はまだ成功しておりません。
大切なことは、どんな前提を立てるかで、結論が決まって来る側面があることです。多くの経済学者は、この前提を無視して議論していることが多いことに注意する必要があります。
さて、「利己心」が中心的役割を果たすとは、こういうことです。
例えば、肉屋とかパン屋は、買う人に対する慈悲心や思いやりで肉を売り、パンを焼いているのではない。あくまで自分の利益のために、儲けるために行っているのである。自分の利益のために行動することが、市場での交換を通じて、自分も満足し、他人にも満足を与えることが出来る、というものです。この原理を経験的に発見したのでした。
しかしこれに留まりません。自由な市場では、各生産者は、各自が利用できる設備や原材料を使って、それぞれが勝手に最大有利と見込む商品(モノとサービス)の量を生産することになるが、自由に取引される市場において価格が変動することによって、その商品の社会全体の供給量と需要量は均衡するのです。供給量が多い時は、価格が下がり、価格下落によって、需要量が増える、ということになり、この価格下落は、需給量が一致するところまで続きます。逆に、供給量が少ない場合は、需給量が一致するまで価格が上昇します。需給量が均衡した時に成立する価格を自然価格と称しています。
次に、各個別商品の均衡が実現するというとは、一国全体について見ても、一国のすべての需要量と供給量が均衡するということです。各人は社会全体の均衡を計画したり、意図している訳でもないとしても、“神の見えざる手に導かれて”(Invisible Hand)、つまり、市場における価格の変動により、自動的に調整される。これが“自然的秩序”であるとします。
第3に大切なことは、自然的秩序は、商品だけでなく、食糧や資源・エネルギー、雇用(賃金によって)、資金(利子率によって)にもあてはまり、それぞれ均衡するというのです。
この第3の均衡の意味するところは、有限の経済的資源エネルギーや商品が、必要な人々に、社会全体で、“最適に、公平に”配分され、また、労働は完全雇用され、資本は必要な産業に投資され、全ての経済的諸資源の均衡が達成されるということです。よって、社会的経済的厚生が達成されるのである。最適な均衡が達成されるというものです。
誰か、政府や官僚が、社会全体の需要量を測定したり生産量を計画している訳でなく、各生産者も消費者も、それぞれが自分の欲しいままに勝手に、自分の利益だけで行動した結果、意図しなくても、社会全体が“自然均衡”を達するという理論である。この均衡価格を“自然”価格というのです。
利己心が社会全体の均衡をもたらす。これはすごい原理であると思いませんか。
中学や高校時代の授業では、人間の生き方として、自己中心のエゴイズムは悪徳である、利己中心で考えたり行動してはいけない、と教わりました。人間の徳性である慈悲心や思いやりが大切であることが繰り返し繰り返し強調され、私もそうだと納得しました。
例えば、自動車の運転や、電車内や公園、山、川や海で、もし自己中心の行動をした場合、他の人に迷惑を及ぼすことになり、公徳心が大切であることをトクトクと事例付きで教わりました。
ところが、大学の経済学入門で学ぶ、アダム・スミスの国富論では、逆であることを知り驚きました。社会生活では倫理的に抑制されるべき欲望や利己心が、経済活動では中心的役割を演じ、社会的に善をもたらす、というのです。逆に、経済活動に慈悲や思いやりを持ち込むことは、自然の均衡法則を曲げるので、むしろ害となる主張します。
アダム・スミスに先立つ約200年前に、贖宥符(免償符とは別物)の販売を契機として、堕落した教会や牧師を批判して、マルティン・ルターの宗教改革(1517年)がありましたが、こうした歴史的流れのなかで、愛とか慈悲を訴えている人々よりも、利己心で動いている人の方が、社会に役に立っている主張しています。
大学の経済学のM教授からは、人間は欲望の動物である。欲望は、名誉欲、物欲、性欲の三つである、と講義を受けたことを覚えています。
先程、利己心による、市場の競争原理は凄い原理であると述べました。
それは、この原理は、利己心の発揮こそが、個人の経済的厚生と社会の均衡をもたらすというもので、個人の幸福と社会の均衡(経済的厚生)を達成する原理となるからです。こんな優れた原理なら、誰でも信奉したくなります。また、多くの(古典派や近代経済学の)経済学者は、確かにこの基本的な枠組みを信奉して、経済政策や制度設計を主導してきました。その結果が今日の現実といっても間違いではありません。
大学で経済学を学んだ時に、地動説を最初に聞いて驚いたので同じような驚きと、本当に凄い原理であると感嘆しました。それ故、私は会計関係を学ぶつもりで商学部に入りましたが、経済学に関心が移り、大学院で理論経済学を専攻することにしたのです。
(続く)
2010年1月17日日曜日
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