前回、アダム・スミスの国富論(1776年)において、人倫道徳の観点からは悪徳に分類される「利己心」(別の言葉で言えば、エゴイズム)が、経済活動においては、中心的役割を与えられ、自由な市場において“自然的”均衡をもたらすことをみた。
ここでのキーワードは、“自由”、自然状態、そして“自然的”均衡の3語であり、3語の歴史的発展を概括しておきたい。
7~8世紀ごろには確立したといわれる封建制社会では、王族、貴族、封建領主、農民の各階級があり、人口の大多数を占める農民(その殆どは“農奴”)は土地に縛り付けられた制度であった。農奴は領主(地主)から土地の耕作権利を得て生活したが、代償として、領主の直営地で無償の賦役労働義務(1週間に2~3日無償で働き収穫は地主が取る)を果たさなければならなし、さらに、農奴が耕す保有地では収穫物の一部を献納する義務があった。その上に、地域の教会に10分の1税も納めた。農奴は家族や耕作用具は所有できたが、転居や職業選択等の自由はなく、領主に拘束され、奴隷に近い暮らしであった。
農奴は、領主の封建的束縛支配から独立する自由を志向した。ドイツでは農奴が都市に逃げ込んで「1年と1日経過すれば自由な身分になれる」という慣習があったという。
11世紀には、戦乱が落ち着き人口が増大し始め、11~13世紀頃の“大開墾時代”を経て耕作地が拡大し、また三圃(さんぽ)式農法(農地を、春・秋・休耕に3分し、3年で一巡するローテーション農法)や牛馬と耕作具の使用で生産力が拡大し、余剰生産物ができるようになった。
その結果、“市”が立ち、やがて物々交換から貨幣流通へ進化し、さらに、商業を専門とする“商人”の新階級が登場した。7次(通説。1096年~1291年)に渡る十字軍遠征等の影響により、広範な交易が進み、生活用品、食品、木工、皮革などの手工業者や商人の居住地域として都市が成立・発展した(参考1)。都市の市民のほとんどは農奴出身であった。
<参考1> 都市では市民自身が自治権を得て、封建領主から自立し、市政を運営した。しかしながら、都市に都市の規制や厳しいルールがあり、全面的な自由はなかった。
都市の自治権は、市民の一部に過ぎない大商人であるギルド(商工業者の職業別組合)の親方が実権をもっていた。親方になるには、大変な修行が必要であった。(徒弟として無給で数年間は家事や雑用を行い、その後職人として技術の習得に励み、他の親方の下で修行し、製品を作り組合の審査が合格してやっと親方になれた)。ギルド内では、親方の人数も限られ、製品の製法、品質、価格などに多くの規制で統制されており、組合員の共存共栄が図られ、独占的権利が与えられ、自由競争はなかった。ギルドは教会とも密接で、各ギルドは特定の守護神を持っていた。ヨーロッパを旅すると、ギルドがあった歴史的建造物に祭られているのを経験される。
1348年に大流行した黒死病(ペスト)により3分の1の農民が死亡したと言われ、また、貨幣経済の進展により、領主の直営地の経営が困窮し(参考2)、一方、農民の反乱が起き締付が緩み、自立する農民が出てきた。十字軍遠征で地方諸侯の軍費負担が重くのしかかっていたので、領主側の反撃により揺り戻されたりしたものの、徐々に荘園制が崩壊してきた。
<参考2>:領主の直営地は、もともと、農奴の無償奉仕で耕作され、収穫物は全て領主のものになっていたが、農奴の保有地に比べると生産性が低かった。
こうして、商人・商工業者中心の市民階級が興隆し、貴族は十字軍遠征の軍費負担や戦死した諸侯の土地没収などで没落し、貴族はこれまでの特権を保証される代わりに王権の官僚や軍隊になり下がったのである。それにより王権が支配力を増強し中央集権化してきた。16世紀始めには絶対王政時代を迎えることになる<参考3>。
<参考3> 絶対王政は、イギリスのチューダー朝(ヘンリー7世、8世)、フランスのブルボン朝(「太陽王」と称されるルイ14世。「「朕は国家なり」と言ったことで有名)等が有名です。脱線すると、ヘンリー8世(1491‐1547)は、6人の王妃を取り替えたことで有名です。最初の王妃キャサリンと離婚し、アン・ブーリンと再婚しようと画策したが、カトリック教会から離婚を許可されなかったので、カトリックから離脱し、英国国教会を作ったのでした。約3年後には、3番目の妻となるジェーン・シーモア(アン・ブーリンの女官)に心が移り、2番目のアン・ブーリンと離婚するために、アン・ブーリンに反逆罪、姦通罪等の無実の罪でロンドン塔に幽閉し、処刑した。アン・ブーリンの娘がエリザベス1世(1533‐1603)であり、大英帝国発展の基盤をつくった。
15世紀から始まった大航海時代の発展により、新大陸の発見なども加わり、ますます交易が拡大し、イタリア・フィレンツェのメディチ家のような大富豪が生まれたが、国際的に競争が激化すると、大商人も権益を守るために、王権に保護主義的な特権を要請した。王権は、官僚や軍隊維持の貨幣が必要になり、商人の保護政策を行いこれらを負担させた。利害が一致して、中央集権化が一層進んだのである。
絶対王政時代には、王権は神により授けられたものであり、絶対不可侵であるという王権神授説が主張された。
しかし、17世紀になると、ガリレオ=ガリレイやコペルニクスの地動説、その後、ニュートンの万有引力の法則等の自然科学の著しい発達があり、社会思想も、疑っても疑っても疑えない自己の実存を表した「われ思う故に我あり」と、理性に基づく合理的精神を説いたルネ・デカルト(仏:1596-1650)等により、啓蒙思想運動が起こり、それまでのキリスト教的宙観や不合理な政治体制や社会の慣習等に多くの疑問がだされた。
こうした背景の下、王権神授説に対して、人間は自然法に基づいて生存や自由、平等という基本的人権を持つとの自然法の思想が現れた。社会契約説をイギリスのトマス・ホッブズ(1588~1679)〈参考4〉が、次いでジョン・ロック(1632~1704)〈参考5〉がそれぞれ主張した。その後、三権分立を打ち立てたモンテスキュー(仏:1689~1755)、言論の自由を徹底的に擁護したヴォルテール(仏:1694~1778)、ジャン=ジャック・ルソー(スイス生れ、仏:1712~78)等が続き、啓蒙思想の代表であった。
<参考4> トマス・ホッブズの社会契約説は、個人は自然権を持つが、各人が自己の自然権を主張し行動すると、社会全体では「万人の万人による闘争」の状態に陥り、各人の生命維持ができないし、平和に暮らすことが出来ない。これを避け、平和に暮らすために、各人が契約を締結して自然権の一部を譲渡して権力が生まれる。各人に絶対的に強制する権力が必要であり、この権力は分割も譲渡も出来なく、王権に属し、変更も出来ないとし、王権を認めた。
<参考5> ジョン・ロックの社会契約説は、自然状態は闘争状態であるとのホッブズの主張を批判し、自然状態において、個人はすべて平等に、生命、自由、財産の所有権を持っていると主張する。しかしながら、各人が自己の権利を主張すると、自然状態の他の各人の権利を保障できない事態に至る、つまり、各人の自然状態における自然権を認めるが、しかし、それだけでは、社会は混乱と無秩序に陥るという主張である。
その無秩序を避けるためには、自由で平等な個人の契約により主権を国家社会に信託Trustした。主権を国家に信託したに過ぎないので、もし国家が個人の権利を守らない場合、抵抗権をもつと主張した。なお、ホッブズは、権力の万能・分割不可の原則を唱えたが、ロックは、権力の分割、すなわち、立法(議会)と行政の2分立を唱え、名誉革命(1689年)を擁護したと言われる。
1793年のフランス革命も、自然法思想による生存権、自由、平等等の基本的人権を主張した近代啓蒙思想を実現しようとするものであった
このように、アダム・スミスの国富論(1776)が表された時代は、「自由」「自然状態」「自然法」「自然法則」と、“自然”が、自然科学と相俟って、社会のあるべき姿を表しており、重要で大きな潮流であった。
経済学も自然科学の法則に擬して、人間の恣意や価値判断を排除して、人間の意思を超えて働く経済法則を究明するのが経済学であるとの主張である。それ故に、「経済学は社会科学の女王である」と称される。そして、経済学以外の社会科学は、“科学”ではないという、経済学者の傲慢な態度が時に見られるのである。
(続く)
2010年4月1日木曜日
2010年1月17日日曜日
新自由主義とは何か(1)
新自由主義とは何か(1) ―利己心が自然的均衡を実現する原理ー
それでは、新自由主義/市場主義とは何であろうか。
新自由主義の原型は、およそ200年前に確立された「古典派経済学」です。アダム・スミス国富論(1776)によって体系化され、その後、ダビッド・リカードやAFマーシャルによって確立された経済理論です。
今回は、古典派経済学を大雑把におさらいしておきたい。
人間の本性の一つである「自己愛」self-love、「利己心」(self-interest)が、市場において人間の価値判断・行動の中心的役割を果たします。人間本性の重要な他の側面である、慈悲だの思いやりだのは切り捨てられます。
マーシャルは、経済行動する人間について、“ホモ・エコノミクス”(利益を追求して合理的に行動する人)という仮定を明確にしました。単純化された人間像です。この仮定の上に、理論が展開されています。仮定の上に理論が構築されている点は、しっかりと記憶し、常に意識しておく必要があります。
なぜなら、社会科学は、“科学的”たろうと論理的展開を企てますが、しかし、人間の個々の意思を超えた自然法則である物理法則のような訳にはいきません。実際、部分的、個別の経済理論を除いて、前提なしには全体の経済法則はまだ成功しておりません。
大切なことは、どんな前提を立てるかで、結論が決まって来る側面があることです。多くの経済学者は、この前提を無視して議論していることが多いことに注意する必要があります。
さて、「利己心」が中心的役割を果たすとは、こういうことです。
例えば、肉屋とかパン屋は、買う人に対する慈悲心や思いやりで肉を売り、パンを焼いているのではない。あくまで自分の利益のために、儲けるために行っているのである。自分の利益のために行動することが、市場での交換を通じて、自分も満足し、他人にも満足を与えることが出来る、というものです。この原理を経験的に発見したのでした。
しかしこれに留まりません。自由な市場では、各生産者は、各自が利用できる設備や原材料を使って、それぞれが勝手に最大有利と見込む商品(モノとサービス)の量を生産することになるが、自由に取引される市場において価格が変動することによって、その商品の社会全体の供給量と需要量は均衡するのです。供給量が多い時は、価格が下がり、価格下落によって、需要量が増える、ということになり、この価格下落は、需給量が一致するところまで続きます。逆に、供給量が少ない場合は、需給量が一致するまで価格が上昇します。需給量が均衡した時に成立する価格を自然価格と称しています。
次に、各個別商品の均衡が実現するというとは、一国全体について見ても、一国のすべての需要量と供給量が均衡するということです。各人は社会全体の均衡を計画したり、意図している訳でもないとしても、“神の見えざる手に導かれて”(Invisible Hand)、つまり、市場における価格の変動により、自動的に調整される。これが“自然的秩序”であるとします。
第3に大切なことは、自然的秩序は、商品だけでなく、食糧や資源・エネルギー、雇用(賃金によって)、資金(利子率によって)にもあてはまり、それぞれ均衡するというのです。
この第3の均衡の意味するところは、有限の経済的資源エネルギーや商品が、必要な人々に、社会全体で、“最適に、公平に”配分され、また、労働は完全雇用され、資本は必要な産業に投資され、全ての経済的諸資源の均衡が達成されるということです。よって、社会的経済的厚生が達成されるのである。最適な均衡が達成されるというものです。
誰か、政府や官僚が、社会全体の需要量を測定したり生産量を計画している訳でなく、各生産者も消費者も、それぞれが自分の欲しいままに勝手に、自分の利益だけで行動した結果、意図しなくても、社会全体が“自然均衡”を達するという理論である。この均衡価格を“自然”価格というのです。
利己心が社会全体の均衡をもたらす。これはすごい原理であると思いませんか。
中学や高校時代の授業では、人間の生き方として、自己中心のエゴイズムは悪徳である、利己中心で考えたり行動してはいけない、と教わりました。人間の徳性である慈悲心や思いやりが大切であることが繰り返し繰り返し強調され、私もそうだと納得しました。
例えば、自動車の運転や、電車内や公園、山、川や海で、もし自己中心の行動をした場合、他の人に迷惑を及ぼすことになり、公徳心が大切であることをトクトクと事例付きで教わりました。
ところが、大学の経済学入門で学ぶ、アダム・スミスの国富論では、逆であることを知り驚きました。社会生活では倫理的に抑制されるべき欲望や利己心が、経済活動では中心的役割を演じ、社会的に善をもたらす、というのです。逆に、経済活動に慈悲や思いやりを持ち込むことは、自然の均衡法則を曲げるので、むしろ害となる主張します。
アダム・スミスに先立つ約200年前に、贖宥符(免償符とは別物)の販売を契機として、堕落した教会や牧師を批判して、マルティン・ルターの宗教改革(1517年)がありましたが、こうした歴史的流れのなかで、愛とか慈悲を訴えている人々よりも、利己心で動いている人の方が、社会に役に立っている主張しています。
大学の経済学のM教授からは、人間は欲望の動物である。欲望は、名誉欲、物欲、性欲の三つである、と講義を受けたことを覚えています。
先程、利己心による、市場の競争原理は凄い原理であると述べました。
それは、この原理は、利己心の発揮こそが、個人の経済的厚生と社会の均衡をもたらすというもので、個人の幸福と社会の均衡(経済的厚生)を達成する原理となるからです。こんな優れた原理なら、誰でも信奉したくなります。また、多くの(古典派や近代経済学の)経済学者は、確かにこの基本的な枠組みを信奉して、経済政策や制度設計を主導してきました。その結果が今日の現実といっても間違いではありません。
大学で経済学を学んだ時に、地動説を最初に聞いて驚いたので同じような驚きと、本当に凄い原理であると感嘆しました。それ故、私は会計関係を学ぶつもりで商学部に入りましたが、経済学に関心が移り、大学院で理論経済学を専攻することにしたのです。
(続く)
それでは、新自由主義/市場主義とは何であろうか。
新自由主義の原型は、およそ200年前に確立された「古典派経済学」です。アダム・スミス国富論(1776)によって体系化され、その後、ダビッド・リカードやAFマーシャルによって確立された経済理論です。
今回は、古典派経済学を大雑把におさらいしておきたい。
人間の本性の一つである「自己愛」self-love、「利己心」(self-interest)が、市場において人間の価値判断・行動の中心的役割を果たします。人間本性の重要な他の側面である、慈悲だの思いやりだのは切り捨てられます。
マーシャルは、経済行動する人間について、“ホモ・エコノミクス”(利益を追求して合理的に行動する人)という仮定を明確にしました。単純化された人間像です。この仮定の上に、理論が展開されています。仮定の上に理論が構築されている点は、しっかりと記憶し、常に意識しておく必要があります。
なぜなら、社会科学は、“科学的”たろうと論理的展開を企てますが、しかし、人間の個々の意思を超えた自然法則である物理法則のような訳にはいきません。実際、部分的、個別の経済理論を除いて、前提なしには全体の経済法則はまだ成功しておりません。
大切なことは、どんな前提を立てるかで、結論が決まって来る側面があることです。多くの経済学者は、この前提を無視して議論していることが多いことに注意する必要があります。
さて、「利己心」が中心的役割を果たすとは、こういうことです。
例えば、肉屋とかパン屋は、買う人に対する慈悲心や思いやりで肉を売り、パンを焼いているのではない。あくまで自分の利益のために、儲けるために行っているのである。自分の利益のために行動することが、市場での交換を通じて、自分も満足し、他人にも満足を与えることが出来る、というものです。この原理を経験的に発見したのでした。
しかしこれに留まりません。自由な市場では、各生産者は、各自が利用できる設備や原材料を使って、それぞれが勝手に最大有利と見込む商品(モノとサービス)の量を生産することになるが、自由に取引される市場において価格が変動することによって、その商品の社会全体の供給量と需要量は均衡するのです。供給量が多い時は、価格が下がり、価格下落によって、需要量が増える、ということになり、この価格下落は、需給量が一致するところまで続きます。逆に、供給量が少ない場合は、需給量が一致するまで価格が上昇します。需給量が均衡した時に成立する価格を自然価格と称しています。
次に、各個別商品の均衡が実現するというとは、一国全体について見ても、一国のすべての需要量と供給量が均衡するということです。各人は社会全体の均衡を計画したり、意図している訳でもないとしても、“神の見えざる手に導かれて”(Invisible Hand)、つまり、市場における価格の変動により、自動的に調整される。これが“自然的秩序”であるとします。
第3に大切なことは、自然的秩序は、商品だけでなく、食糧や資源・エネルギー、雇用(賃金によって)、資金(利子率によって)にもあてはまり、それぞれ均衡するというのです。
この第3の均衡の意味するところは、有限の経済的資源エネルギーや商品が、必要な人々に、社会全体で、“最適に、公平に”配分され、また、労働は完全雇用され、資本は必要な産業に投資され、全ての経済的諸資源の均衡が達成されるということです。よって、社会的経済的厚生が達成されるのである。最適な均衡が達成されるというものです。
誰か、政府や官僚が、社会全体の需要量を測定したり生産量を計画している訳でなく、各生産者も消費者も、それぞれが自分の欲しいままに勝手に、自分の利益だけで行動した結果、意図しなくても、社会全体が“自然均衡”を達するという理論である。この均衡価格を“自然”価格というのです。
利己心が社会全体の均衡をもたらす。これはすごい原理であると思いませんか。
中学や高校時代の授業では、人間の生き方として、自己中心のエゴイズムは悪徳である、利己中心で考えたり行動してはいけない、と教わりました。人間の徳性である慈悲心や思いやりが大切であることが繰り返し繰り返し強調され、私もそうだと納得しました。
例えば、自動車の運転や、電車内や公園、山、川や海で、もし自己中心の行動をした場合、他の人に迷惑を及ぼすことになり、公徳心が大切であることをトクトクと事例付きで教わりました。
ところが、大学の経済学入門で学ぶ、アダム・スミスの国富論では、逆であることを知り驚きました。社会生活では倫理的に抑制されるべき欲望や利己心が、経済活動では中心的役割を演じ、社会的に善をもたらす、というのです。逆に、経済活動に慈悲や思いやりを持ち込むことは、自然の均衡法則を曲げるので、むしろ害となる主張します。
アダム・スミスに先立つ約200年前に、贖宥符(免償符とは別物)の販売を契機として、堕落した教会や牧師を批判して、マルティン・ルターの宗教改革(1517年)がありましたが、こうした歴史的流れのなかで、愛とか慈悲を訴えている人々よりも、利己心で動いている人の方が、社会に役に立っている主張しています。
大学の経済学のM教授からは、人間は欲望の動物である。欲望は、名誉欲、物欲、性欲の三つである、と講義を受けたことを覚えています。
先程、利己心による、市場の競争原理は凄い原理であると述べました。
それは、この原理は、利己心の発揮こそが、個人の経済的厚生と社会の均衡をもたらすというもので、個人の幸福と社会の均衡(経済的厚生)を達成する原理となるからです。こんな優れた原理なら、誰でも信奉したくなります。また、多くの(古典派や近代経済学の)経済学者は、確かにこの基本的な枠組みを信奉して、経済政策や制度設計を主導してきました。その結果が今日の現実といっても間違いではありません。
大学で経済学を学んだ時に、地動説を最初に聞いて驚いたので同じような驚きと、本当に凄い原理であると感嘆しました。それ故、私は会計関係を学ぶつもりで商学部に入りましたが、経済学に関心が移り、大学院で理論経済学を専攻することにしたのです。
(続く)
2009年12月23日水曜日
経済学は役に立たない、しかし、人間の幸福には欠かせない
経済学は、大学で学び社会人になった時、何か役に立ったと言える人はいるだろうか。
簿記や会計学と違って、恐らく、経済官僚、エコノミスト、経済記者、金融関係など特定の仕事以外では、直接的に役に立ったという実感はないに違いない。
ところが、私たちの生活に直結している国の経済政策となると、話はガラッと変わる。国の多くの政策、それが経済政策でなくても、税制や財政支出に関係しているので、経済学と深い関係がある。
経済学者が、自説を唱え、政治家や官僚がそれを採用する時、その政策が本当に妥当かどうかを判断する基準は、経済理論でしかない。この局面において経済学の重要性が忽然と現れ、自覚されるのである。
政党の好みや政治家の人間性などではない。小泉首相は人を惹きつける魅力的な人物あった。今でもご婦人層から人気が衰えないが、そのことと彼の信ずる経済政策の是非とは無関係である。
説得力あるワンフレーズ。明快な方向性の打ち出し。比類なき実行力。私欲のないクリーンイメージ。彼に対する圧倒的支持率で、「聖域なき改革」と称し、各方面の規制緩和と自由化、自己責任の下に福祉切り捨て、郵政民営化など。「改革なくして成長なし」であったはずであった。その結果はどうであったか。周知の悲惨な現実である。人情も人間性も、実行力も、妥当な経済理論とは関係ないのである。経済理論が誤れば、当然結果も悲惨になる。
ところで、新自由主義経済学者はこの現実をどうみているのであろうか。
彼らは、相変わらず、うまくいかないのは規制緩和改革が不徹底だから、もっと自由化しろ、と竹中元金融相は至って元気である。彼らは、悲惨な“現実”が見えないのであろうか?
そうではない。現実が見えないはずはない。真意はこうである。彼らの経済理論に従えば、現実がたとえ悲惨に見えても、これは、実は自由競争は自然的秩序をもたらすものであり、自然の姿であり、なんら問題ない。逆に、弱者を助ける福祉政策は、結局、自然の秩序への不当な介入であり、やるべきでない、と。これが新自由主義の経済理論である。
“現実”はとっくに破綻しているが、彼らの経済理論は元気で正しいのである。何が間違っているのか?現実か、理論か? つまり、役に立たない経済理論も、その再構築なしに、人類の幸福はないことが鮮明にわかるのである。
経済理論の再検討と再構築、これが、本サイトの目指すところです。決して面白く愉快なエンターテイメントサイトではありませんが、我慢して継続的閲覧を、またコメントご意見の投稿をお願いいたします。
簿記や会計学と違って、恐らく、経済官僚、エコノミスト、経済記者、金融関係など特定の仕事以外では、直接的に役に立ったという実感はないに違いない。
ところが、私たちの生活に直結している国の経済政策となると、話はガラッと変わる。国の多くの政策、それが経済政策でなくても、税制や財政支出に関係しているので、経済学と深い関係がある。
経済学者が、自説を唱え、政治家や官僚がそれを採用する時、その政策が本当に妥当かどうかを判断する基準は、経済理論でしかない。この局面において経済学の重要性が忽然と現れ、自覚されるのである。
政党の好みや政治家の人間性などではない。小泉首相は人を惹きつける魅力的な人物あった。今でもご婦人層から人気が衰えないが、そのことと彼の信ずる経済政策の是非とは無関係である。
説得力あるワンフレーズ。明快な方向性の打ち出し。比類なき実行力。私欲のないクリーンイメージ。彼に対する圧倒的支持率で、「聖域なき改革」と称し、各方面の規制緩和と自由化、自己責任の下に福祉切り捨て、郵政民営化など。「改革なくして成長なし」であったはずであった。その結果はどうであったか。周知の悲惨な現実である。人情も人間性も、実行力も、妥当な経済理論とは関係ないのである。経済理論が誤れば、当然結果も悲惨になる。
ところで、新自由主義経済学者はこの現実をどうみているのであろうか。
彼らは、相変わらず、うまくいかないのは規制緩和改革が不徹底だから、もっと自由化しろ、と竹中元金融相は至って元気である。彼らは、悲惨な“現実”が見えないのであろうか?
そうではない。現実が見えないはずはない。真意はこうである。彼らの経済理論に従えば、現実がたとえ悲惨に見えても、これは、実は自由競争は自然的秩序をもたらすものであり、自然の姿であり、なんら問題ない。逆に、弱者を助ける福祉政策は、結局、自然の秩序への不当な介入であり、やるべきでない、と。これが新自由主義の経済理論である。
“現実”はとっくに破綻しているが、彼らの経済理論は元気で正しいのである。何が間違っているのか?現実か、理論か? つまり、役に立たない経済理論も、その再構築なしに、人類の幸福はないことが鮮明にわかるのである。
経済理論の再検討と再構築、これが、本サイトの目指すところです。決して面白く愉快なエンターテイメントサイトではありませんが、我慢して継続的閲覧を、またコメントご意見の投稿をお願いいたします。
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