2010年9月2日木曜日

第6回 自由主義に悪意排除のメカニズムが内在するか

前回は、第1に、自由競争が秩序ある均衡をもたらすのは、市場が“完全”競争であるという前提が必要であり、この前提は現実にはありえないこと、第2に、自由競争市場だけではうまく均衡しない「市場の失敗」といわれる欠陥が内在していること、これらのために、政府の政策や規制が必須であることを示した。規制の緩和や撤廃だけでは、自由競争の歪が必ず伴うのであり、このことを明確に理解することが重要である。正解は、自由主義に適切な規制の組み合わせが必要なのである。これを秩序型自由主義と命名したいと思う。

今回は、自由競争の原理に、もう一つ重要な欠陥があることを検討する。それは、自由競争の原理の中に、嘘、姦計、悪意や不正義を排除し防御するメカニズムがビルトイン(内臓)されているか、という視点である。自由競争の原理の中に、排除のメカニズムがビルトインされているならば、自律的に排除されるのでそれを信頼すれば足りるが、そうでなければ、排除防御のメカニズムを市場の外部から、政府の規制として与えなければならないであろう。

人間には、残念ながら、嘘や姦計など様々な悪徳が、美徳とともに内在しており、虚偽、詐欺、詐取、横領、背任、偽装などの社会的不正義が蔓延していることを否定する人はいないであろう。

高校教師であった尊敬する先輩E氏は、「人は、他人(ヒト)が見ていなければ何をするかわからない」と喝破したが、人間の心理、真理であろう。人間が利己心だけで行動するとすれば、何をするかわからないのが、人間の性である。全ての人間はこの悪徳の性質が観察されるし、社会的不正義の行為は大なり小なり毎日報道されるとおりである。

結論を述べるなら、自由競争の原理をどうひっくり返しても検討してみても、悪徳や不正義を排除したり防御する仕掛けは内在しないのである。自由競争のメカニズムを提唱したアダム・スミスは、国富論において<注1>、「正義の法を侵さないかぎりは」各人は規制や特権を廃止して自由に競争できると、自由競争における前提をつけているのである。

<注1>「各人は正義の法を侵さないかぎりは、完全に自由に自分がやりたいようにして自分の利益を追求し、自分の勤労と資本をもって、他のだれとでも、他のどの階級とでも、競争することができる。」(国富論Ⅱp511。大河内一男監訳、中公文庫)と述べている。

「正義」とは、他人の生命、身体、財産、名誉を侵さない」ことである。自由主義理論では、「正義の法を侵さないかぎり」、自由競争の公平性や社会的秩序が達成できるのである。もし、市場参加者が、嘘や悪意により、虚偽、詐欺、偽装、横領、背任等を行おうとするときに、その歯止めのメカニズムは市場原理には内在しない。それ故に、自由市場の機能を保証するためには、市場の外部から、法律や規制でそれを抑制することが必要である。<補足1>

<補足1> ミルトン・フリードマンは、アダム・スミスの前掲の部分(注1)を引用し、「自由とは、責任を果たせる個人のためにだけ、その達成を主張できる目的だ。われわれは、狂人や子供たちも自由を持たねばならないとは、信じていない。」と述べている。(「選択の自由」p54西山千明訳。日本経済新聞社)。
ミルトン・フリードマンは、こう述べながら、子供の責任は親であるべきなどと展開するが、本来の「責任」の問題は言及深化されていない。しかし、フリードマンも、自由と責任は一体であることに自覚は十分にあると思われる。また、この責任とは、市場参加者が悪意や不正義を行わないことを意味していると思われる。

嘘や悪意を排除し、正義を実現するメカニズムは、自由競争市場の信頼性を左右する非常に重要な点であるにもかかわらず、経済学の教科書において、殆ど語られていないのである。新自由主義を喧伝する人々も、多くの経済学者も、このような欠陥を自覚しないか、無視している。<補足2>

<補足2> ごく最近、朝日新聞の記事で、小林慶一郎教授(一橋大学)が、公平な市場ルールの確立の必要性に言及されていたが、このような視点は多くはない。曰く、『市場ルールを無視する拝金主義者は、ルールを守る人々のまじめさにつけ込んで、市場システムを傷つける。市場システムを守るという覚悟からは、自然と「商取引における誠実さ」「労働者、経営者、投資家の間の所得分配の公平さ」「他者の活動への寛容と敗者復活の機会均等」などのルールが導き出されるはずだ』、と。(朝日新聞2010年8月25日「Opinionザ・コラム、小林慶一郎、「価値として守る覚悟持て」。) 
小林教授の主張は、このルールがどのように形成されるべきかについては明らかでない。しかしながら、これが自由市場システムの中で自然発生的に確立するわけではないことだけは確かである。

繰り返すと、利己心の自由な発露が自由競争市場を通じて社会の秩序をもたらすというとき、利己心と同時に、人間の徳性である、正義心、正直、誠実、尊厳、他人を思いやる心や慈悲心が、フリードマンの言葉に置き換えれば、責任が、働くことが前提になるのである。

利己心や欲望は自然に成長するので、教育等により煽る必要はない。しかし、人間の徳性は、教育等で意識的に育てないと育たないので、この育成政策が重要である。
他方で、しかし、教育だけで嘘や姦計がなくなるわけではない。法律や規制によりきちんと担保しないと、正義は実現しない。

現実には、近年の規制緩和、自由化により、メリットがあった一方で、それ以上に酷い副作用が出ているのが多くある。派遣法の自由化、金融、投資の自由化など顕著である。村上ファンドやライブドアの堀江氏のように、「金儲けが何故悪い」と主張するも、金儲けには何をしてもよいわけではない。時間外取引や仮装の売り上げ計上など、嘘や姦計を用いた金儲け、詐欺、詐取は犯罪であり、規制されるべきであるということである。

規制緩和・撤廃は、新産業や新企業の出現により一時マスコミ等でもてはやされた一方で、その抜け道を突いて、姦計や悪知恵のある悪徳業者が跋扈バッコし、詐欺や詐欺まがい、そして搾取などが多く起きた。労働者派遣法解禁で起きた。フルキャストやグッドウイルが有名である。さらに、規制の盲点を突き、貧困者から詐取する貧困ビジネスなども流行っているのである。

政府の規制に問題がないわけではないが、しかし、規制をなくせば世の中はもっとよくなる式の発想は、そう単純ではないことを明記しなければならない。

フリードマンは、『(前略)われわれが学びとらなくてはならない教訓は、「どんな政府による介入も、決して正当化されない」ということではなくて、「どうして政府による特定の介入政策を必要とするかの証明が、その特定の介入政策を主張する人びとの責任において、提出されねばならない」ということだ』(前掲書p53)と、規制の必要性を検証する制度を確立すべきと説いている。規制の必要性を検証する制度は当然であるが、逆に、規制を緩和廃止する場合も、同じく、その効果と弊害・副作用を十分に検討し、弊害の緩和措置をとらねばならない。

小泉改革時代は、ほんの一握りの偏った緩和推進派が、諮問会議などの蓑を借りて、粗雑な緩和策を、十分な検討もなしに拙速に進め、逆に、問題を指摘し、反対する意見に対して、旧守派だの改革抵抗派だのとレッテルを貼り、マスコミが大々的にそれを報道したのであった。
その結果は、緩和を推進したほんの一部の利特者がぼろ儲けし、その儲けは、他の多くの人からの搾取や詐取(詐欺的な儲け)であったり、あるいは、社会保障や医療崩壊、(小中)学校崩壊などをもたらした。公平な市場の確立ではなく、その利特者の利害の改革となったのである。

<参考> 
グラスゴー大学で道徳哲学・倫理学の教授であったアダム・スミスは、国富論の先立つ、「道徳感情論」(初版1759年。改定第6版)において、人間の「同感sympathy」が、善良な第3者的な判断を行うことで人間の良心を形成し、悪事はしない、というような人間観を展開している。この人間観に立って、国富論で自由競争原理を展開している。
なお、「道徳感情論」の訳者、水田洋・名古屋大学名誉教授は、現在の自由主義の主張には誤解があると、述べる。アダム・スミスは、『「もうかるならなら何をやってもいい」とうようなことは言っていないのです』、『彼の言う自由競争とは、人がそれぞれ利益を求めているなかで、お互いに「同感」でき、納得できる程度に、自主規制するような状況を指しています』とのことである。(朝日新聞「自由競争に誤解あり」、2009年11月7日夕刊)。いずれにしても、善良な市場参加者を前提にしているのである。理不尽な殺人や傷害事件、詐欺、偽装の多い人間社会にあって、そのような前提はありえない。

0 件のコメント:

コメントを投稿